神社由来

「浪打八幡宮」の起源の拠り所

平成16年(2004年)に、御鎮座1400年の記念大祭と記念事業(本殿再建)竣工報告祭を浪打八幡宮にて行いました。 その際、当八幡宮の起源の拠り所としたのは、当八幡宮を守護神としていた村のひとつである吉津村(他には詫間村、比地村、比地中村村、仁保村など)に、代々住まわれている丸岡家に残された古文書(丸岡家文書)でした。 丸岡家はその昔、福井県丸岡城にルーツを持つ旧家であり、吉津村においては長きにわたり庄屋を務め、明治以降は村長も輩出している家柄です。

その関係から同家には多くの古文書が残されており、当八幡宮に関係するものも多々あり、その中には当八幡宮の別当を務めていた教順に対する検校(けんぎょう)任命書(850年)も含まれていました。 この任命書には、嵯峨天皇の皇后である檀林皇后(だんりんこうごう)とその弟である右大臣橘氏公の押印がなされており、史実的にも確かなものであると判断されています。

こうしたことから、丸岡文書には一定の信頼性があると判断し、当八幡宮の由緒起源が1400年前に遡る根拠として、丸岡家に残された古文書のひとつである由緒記文書を採用しました。 参考までに、その由緒記文書の内容を現代語訳して紹介しておきます。

丸岡家に残された古文書「由緒記文書」

浪打八幡宮の由来を詳しく調べてみると、文武両道に優れた31代天皇である敏達天皇(注1)の皇子である高村親王(注2)が、その勇気と優れた人柄を見込まれたことから、敏達天皇の命令で東国の夷狄退治(いてきたいじ)に向かい成果を挙げ、続いて推古天皇の勅命で南海の大乱を平定させ、その後は讃岐三野郡詫間(注3)に御殿を造営し、安居されていたことに遡ります。
推古12年(604年)8月14日の夜、高村親王は夢の中で高波の中に浮かぶ光る物を見つけ驚き、それを手に取るとその金色の木像がこう話しました。

「我は敏達天皇(父)が彫った八幡神で、敏達天皇崩御(585年)の後、内裏の宝蔵の中に納められ誰にも見向きされなくなってしまった(注4)。 この度は子孫である高村親王を懐かしく思い、難波の港より青々たる海を移動して詫間の入江にやってきた。これから先はこの地に留まろうと思う」とのことであった。 親王はこの託宣に驚き、八幡神を浪打八幡宮の主祭神として祀ることを都(推古天皇)に進言、詫間荘の霊験あらたかな守護神(注5)として祀られることになった。 また、高村親王は浪打八幡宮の建立に合わせて、都より中臣氏の宿禰(すくね)職である宝寿彦を別当として呼び寄せ、敏達天皇がお造りになった八幡神像を大切に安置してお祀りした」

古文書「由緒記文書」注釈

敏達天皇(在位572年〜585年)飛鳥時代の天皇。最初の皇后であった広姫との間に1男2女、次の皇后である推古天皇との間には2男5女をもうけている。
この時代は排仏派(物部氏)と崇仏派(蘇我氏)の政治的対立の最中であった。 敏達天皇は排仏派と言われているが、額田部皇女(後の推古天皇)は蘇我氏の流れを汲んでおり、後に天皇の位につくと聖徳太子とともに仏教による国造りの姿勢を明らかにしている。
敏達天皇と広姫との間に生まれた長子(押坂人彦大兄皇子)は評判も良く天皇候補として名は上がったものの、その地位につくことはなかった。

一説では、高村親王は敏達天皇と推古天皇の間にもうけられた竹田皇子と考えられている。
竹田皇子の名は、廃仏派であった物部守屋との戦い(587年)の参加者として名を確認することができるが、年少(推定10歳未満)であったため名前のみの形式的な参加であったと思われる。

その後、正史からの一切の記述がなくなるが、40年ほど後の日本書紀に「推古天皇は、死んだら竹田皇子と合葬するように遺詔した」との記述が出てくることや、598年に推古天皇が高村親王に詫間領有の綸旨を下していることから、やはり高村親王と竹田皇子は同一人物であった可能性を禁じ得ない。 そうであるなら、竹田皇子は敏達天皇の長男となり、本当のところは父に従って廃仏の考え方を持っていたと考えられる。

つまり廃仏派の物部守屋に近いため、蘇我氏に狙われることを危惧し推古天皇が詫間の地に隠れ住まわせていたのであろう。 「丸岡家文書」にある南海の大乱とは、602年に異族8000人が鉄人に率いられて来襲した事件を指すものと思われる。 皇子(高村親王)は推古天皇に命じられてこの戦いに参加したとあることから、推古天皇はその労苦に報いる思いもあって、皇子が受けた託宣による浪打八幡の創建(604年)に応じたのであろう。

この時代、詫間は天皇直轄地(天領)であり、ヤマト政権が必要とする兵馬を飼育する「詫馬牧」があったとの記す書籍がある。(馬を託したから詫間という地名になったという説の根拠)
また、詫間湾に浮かぶ粟島にも「馬城(まき)」、「たてがみ」、「尾」という地名が残り、島内には「馬城八幡神社」が鎮座している。 こうしたことに加え598年には領地の綸旨も出されていることから、高村親王が詫間の地に安居していたことに不思議はない。
そして瀬戸内海交通の玄関口に当たる三野津(詫間)を見渡す現在の地が選ばれたと思われる(一説には古墳跡地)。

その後もこの詫間の地は代々の天皇に移譲(亀山天皇→照殿院→後宇多天皇→後醍醐天皇→藤原九条家)され、後には後醍醐天皇の討幕の企てが露見し、捕らわれた宗良親王が詫間に配流されている。 その時「浪打八幡宮」の僧侶であった英遍が親王の世話役となったことが史実として残っている。

敏達天皇が作られた八幡像が崩御後宝蔵に放置されていたという表現は、以降の歴代天皇が蘇我氏の意を汲む崇仏派天皇となってしまい、排仏派であった敏達天皇の存在感が薄れたことを揶揄したものと思われる。

天皇直轄の地であった詫間荘の守護神となるには、託宣のあった推古12年(604年)に、八幡神という神が応神天皇と同一であるという考え方が、朝廷側で共有されている必要がある。
宇佐地方の土着の神である八幡神が、応神天皇そのものであるという認識は571年に遡るといわれている。 宇佐八幡宮社伝によれば、571年に八幡神が3歳の子供に姿を変え、自分が応神天皇であると託宣され、その託宣を大和国から派遣された大神神社の神官が聞いたとされている。

これを契機にして八幡神と応神天皇は同一(習合)という考え方が次第に都に広まっていったと考える。 よって、604年に詫間の地で「八幡神の木像が、我は応神天皇なり」と託宣したとの報告がなされても、朝廷側にとっても違和感はなかったのであろう。


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