人物群像

浪打八幡宮の人物群像
高村親王
 人王三十一代敏達天皇の皇子、母は第三十三代推古女帝。智仁勇の三徳兼備し、南海道の乱を平定の祈り詫間に行宮を造営される。推古十二年八月十四日夜、神託を得て父敏達帝宸作の八幡神像を奉安し、浪打八幡宮を造営創建される。

中臣宿禰寶壽彦(なかとみのすくねほうじゅひこ)
 浪打八幡宮の別当神宮寺寶壽院の初代別当。高村親王により都より招かれる。寺院名はこの名に因むと言われる。

教順
 嘉祥3年(850)檀林皇后(嵯峨天皇妃=橘嘉智子)と右大臣橘氏公により、浪打八幡宮神宮寺の検校職に任ぜられる。検校職は社寺の事務を統括すると共に郷内仁尾から比地に及ぶ五箇村の司法権をも有したといわれる。

宗良親王
 尊澄親王、妙法院宮とも称す。後醍醐帝第五皇子。南北朝動乱の中、天台座主より還俗。南東征東将軍として戦に明け暮れる生涯であったが、藤原の定家の血をひく和歌の名手で多数の名歌を残す。
 元弘3年(1333)北条氏によって父帝の天領詫間の庄に配流される。王屋敷と呼ばれる田井の詫間三郎の館に居られ、浪打八幡宮の社僧(英遍又は学海)らがお慰めした。建武中興で帰京された折り浪打宮に三体の神輿を奉納。社僧への恩賞として代々の検校職を賜ったという説がある。田井親王宮のほか御渡り石(天満)や歌碑句碑など親王由縁のもの多し。

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